箱根の家
何百年と人々の暮らしを見守り続けてきた柱や梁
山があり湖があり、自然環境が素晴らしい箱根を、家を建てる地と定め、
それからは何かにとりつかれたように、全国の村々を訪ねては
壊され捨てられていく古民家を二百軒あまり見て歩きました。
百年、百五十年という貴重な歴史を持つ家々が、住みにくい、維持がたいへん、
跡継ぎがいない・・・などの理由で次々に捨てられていった悲しい時代でした。
はじめは、大きな家にする気はありませんでしたが、土地のおばあちゃん達に
「なんとかこの家を守ってほしい」と訴えられると、断りきれなくなってしまい、
結局、十二軒の家を譲って頂きました。
その木々は私たちの家族の住む家を形造り、第二の命を生きることとなりました。
どのような家にするかということは、職人さん達と二人三脚で行いました。
農家をそのまま復元するのではなく、古い木材を利用しながら、
和洋折衷の快適な住まいを造ろうと思いました。
届いた梁や柱は、一本一本丁寧に磨きました。
煤を払い、水で洗い、手は真っ黒になり、爪にも煤が入り込んで・・・
女優の仕事がはいると、慌てて爪にマニキュアを塗って出かけていく日々でした。
こうして仕上げた木材を、箱根の神社の御神酒で浄めて工事に入りました。
柱や梁の元の姿を残したまま、組み合わせていくという家造りであったため、
部屋を一つ一つ何年もかけて造っていきました。
そして我が家が完成したときには、私はすでに四人の子供達に囲まれていました。
それから、日本の各地の農家で、何百年と人々の暮らしを見守り続けてきた柱や梁、
そしてそこに宿る木の霊に守られて、箱根の家での子育てをしました。
「木の霊」・・・私は、木々がうっそうと茂る原生林の中に立つと、樹木の一本一本が
立木像に見え、ざわざわとなる木の騒ぎが、耳に響きわたる瞬間があります。
樹齢何百年という大木のそばに行くと、その太い幹に、そっと身体をすり寄せたい衝動にかられます。
いつのころからか、「木のなかに精霊が宿っている」と私は思うようになってしまいました。
人生には様々なことが起こります。
私もまた、子育てに悩んだり、仕事で行き詰まりを感じたときなど、
はっとすると、目に涙が溢れていたことだってありました。
そんなとき、私はどれほど、箱根の家に慰められたことでしょう。
家の中心となる囲炉裏端。
主人はとと座、台所に近い一辺には私のかか座、そしてあとの二辺には子供達・・・。
家族が寝静まった夜、ひとり、かか座に坐っていると、我が家の柱や梁たちが語り合う声が
聞こえるような気がしました。太古の昔から、私たち人間は自然から守られ、
そのおかげで、この地球上で生き延びることができた生物です。
私達よりもずっと早くからこの世に生きていた木々に守られ、
生きることを許されたのが人間といったら、言いすぎでしょうか。
我が家の柱や梁には、長い間、人々を守り続けてきた優しい表情があります。
辛いとき、悲しいとき、もう一歩も前に進めないわと感じたとき、かか座に坐ると
私は木々に心を慰めてもらうことができました。
木々がそっと私の心を抱きしめて、大丈夫よ、と安らぎに導いてくれるのを感じました。
自然にも物にも魂があるような気がします。
家にも、木にも、骨董の皿や壷や鉢にも、私がなにかに導かれるように、
これまで多くのものと出逢ってきたのはそのためのような気がします。
ただ美しいだけではなく、私の心を慰め、支え、安らぎを与えてくれるものであるからこそ、
私は箱根の家や骨董に心惹かれるのです。
はじめての骨董「蹲」
ものには本物とそうでないものと、二つしかない。本物に出会いなさい
骨董と私の最初の出会いは京都でした。
私は15歳で女優としてデビューをしました。
中学校の修学旅行では京都に行くことはできませんでしたので女優2年目にして初めての京都。
東京から乗った列車の車窓には、少しばかりまぶしくなった日の光が降り注ぎ、胸がどきどきしたことを覚えています。
その日から骨董との長いお付き合いが始まるなんて、そのときの私は知る由もありませんでした。
京都に降りたったとき、思わず立ちつくしたことを私は覚えています。
そこには日本の美しく繊細な町並みが広がっていました。
木造の町屋がずらりと並び、表通りには、昔ながらの看板や佇まいを残したお店がつづいていました。
そして町を見守るように、しっとりと四方を取りかこむ山々…。
迎えのタクシーが走り出すと、町のあちらこちらに点在する緑の森に囲まれている場所が、
お寺や神社であることを、鴨川の流れが日差しに反射してキラキラ光っていることを、
この凛と落ち着いた町の中に日本の歴史が詰まっていることを感じ、胸が熱くなりました。
私が京都を訪れたのは、雑誌の表紙撮影のためでした。
「撮影場所は京都。カメラマンは土門拳さんです」
そう聞かされたときから、私はその撮影に胸を躍らせていたように思います。
京都はずっと訪ねてみたいと思っていた場所であり、土門拳さんは私の憧れの写真家でしたから。
土門さんの写真集『筑豊の子どもたち』は私にとって目をそらすことの出来ない力を持つものでした。
九州・筑豊の閉山に沈む炭鉱町の子供達を撮ったこの写真集の表紙は、
小学四年生のるみえちゃんという女の子でした。
電灯代わりのろうそくに、マッチで火をつけるるみえちゃんと、それを見守る三つちがいの妹…。
姉妹のもの憂いた佇まいと無邪気さ、美しさと底知れぬ悲しみ、
一枚一枚の写真が、悲しさと子供達の愛らしさを伝えていました。
私はまだ幼く、これらをなんと評していいものか、言葉を見つけることさえできませんでしたが、
厳しい現実にさらされて、それをただじっと見つめ、向かい合う子供達の姿に、
戦後の日本が抱えて、そして忘れ去ろうとしたもののなにかを、私は感じていたのかもしれません。
京都での撮影が始まったのですが、土門さんはまもなく、「光がよくない。撮影はヤメ」とおっしゃり
撮影を翌日に延期することになりました。
突然の空白になった時間をどうしようかと思っていた私を土門さんが誘ってくださいました。
「ついておいで。これから本物を見に行こう」
八坂神社の境内を通り過ぎ辿りついたのが「近藤」という骨董のお店でした。
もちろん、私にとって初めての骨董のお店でした。
店主の近藤金吾さんは、土門さんの後ろに女の子がいるとわかって、
おやっという顔をなさったような気がします。
「土門さん、今日はめずらしいですな。お嬢さんをお連れで」
「この娘は浜美枝という女優でなぁ。写真を撮るのに連れて歩いとる」
近藤さんは、私たちを奥の座敷に案内してくださり、そこには、ずらりと信楽の壷が並んでいました。
お二人が熱心に話されている傍らで、私はポツンと坐りながら、まわりに並べられていた信楽を拝見していました。
最初はただぼんやりと見ていたのですが、しばらくするうちに、私は信楽に心を奪われつつある自分に気付きました。
ひとつとして同じ姿形をしたものがなく、ひび割れたりしているものもあるのだけれども、その存在感の確かさ、
佇まいの美しさが心に響いたのです。その時です。不意に土門さんが振り向くと、こうおっしゃいました。
「近藤さんの目で選んだものばかりだからね。よく見ておくといい。
ものには本物とそうでないものと、二つしかない。本物に出会いなさい」
あの厳しいお顔をされていた土門さんが、少しばかり優しい目をなさっていました。
お店の中も見ることをすすめられた私ですが、どんなふうに見ればいいのかさえ知りません。
私は、ゆっくり歩きながら、見るともなく店に飾られたものを見ていました。
と、突然、私はある壷の前から離れられなくなってしまったのです。
その壷の名は「蹲」。
手のひらにすっぽりはいるくらいの小さな壷です。
首は欠けているのですが、なんて優しい形なのかしら。
なんて柔らかで静かな表情をしているのかしら。
なんて美しいの。なんて、なんて…。
あふれんばかりの感動と感嘆で私の心は満たされ、時間がふっと止まったようでした。
そして、
「私にこの壷を分けてください」
何もわからないまま、近藤さんにお願いしてしまっていたのです。
近藤さんも土門さんも驚いたような顔をなさいました。
しかし私が本気であることがわかると、近藤さんは、
「この壷は半年後に東京日本橋三越本店で開かれる信楽展に出品するので、
そこでまた見て、それでもこの壷が欲しかったら改めて連絡をしなさい」
半年後、待ちに待った三越での信楽展が聞かれました。私は飛んで行きました。
そして「蹲」に再会。改めて「蹲」を自分のところに置いておきたいと強く思いました。
貯金などまだ少ししかありませんでしたので、お給料を前借りさせていただき、近藤さんにご連絡をしました。
展覧会が終わり、「蹲」が私のもとにやっきたのは11月20日。私の17歳の誕生日のことでした。
「蹲」は、私の骨董の原点です。
降りかかった灰袖だまりの風情がなんともいえず、大侘びの風情をかもす安土桃山時代の信楽です。
後年、土門さんとお会いしたときに、「蹲」についてこうおっしゃいました。
「美枝さん。あなたが買っていなかったら、『蹲』は僕がと思っていたものだったんだよ。
万が一、手放すようなことがあったら、いちばん最初に僕に連絡してくれよ」
なんだかとても嬉しくなったものです。
この「蹲」には毎年一度、二月に箱根の家に咲く寒椿を一輪さして、ひとり眺めておりました。
あの日、撮影が順調に進んでいたら、土門さんは私を「近藤」に連れて行ってくださらなかったはずです。
私はさっと帰京し、骨董のことなど知らずにいたでしょう。
土門さんとも、この一日だけの仕事上のお付き合いでお別れしていたことでしょう。
京都のその日、お天気が土門さんのお気に召さなかったために、私は「骨董」に出会うことができたのです。
美とはなにか。本物とはなにか。
迷ったときには、私は「蹲」と出会った日に戻ります。
心と身体が震えるような大きな喜びを感じた幸せな出会いを思い、
そして土門さんの言葉をかみしめるのです。
日本の美しい暮らしを伝えたい
季節の移ろいに歩調を合わせた日本人の日々の営みは美しく味わい深い
私の母は、外で仕事をしていたため、昼間は家にいなかったのですが、掃除は大好きで、
毎朝仕事に出る前に、はたきをかけ、畳の目に沿ってほうきをかけ、年がら年中、拭き掃除をしていました。
おかげで、6畳ひと間の小さな家でも、いつもこざっぱりしていてすがすがしい感じがしました。
その小さな家で、母は季節の設えも楽しんでいました。
春は千代紙で雛人形を折り、緋毛氈に見立てた真っ赤な祈り紙の上にお内裏様とお雛様を並べました。
紙雛でもふくらみかけた挑の花を脇に飾ると、なんだかとても晴れがましく見えるのでした。
七夕には近所の笹藪から1本いただいてきて、短冊をつるしました。
当時、子供たちの貴重品だったとっておきの祈り紙でひらひらする飾りも作りました。
今年は皆んな何を書いたのかしらとひょいと覗いたり、織姫と彦星が会えるようにと
てるてる坊主を作ったりするのも楽しいものでした。
秋は父の徳利にススキを活けてお月見もしました。
白地のなんの変哲もないありふれた徳利でしたが、月の光をあびると凛として美しく、
幼心にも綺麗だなぁ、と思ったことを今も覚えています。
「角のお宅の椿が咲いたの。『きれいですね』といったら、一輪切ってくださったのよ」
そう言いながら、母がガラスの小さな器に椿の花を浮かべてくれたこともありました。
母は野の花も好きで、多摩川の土手で季節の花を摘んできては、古い湯飲みに活けていました。
戦後まもなくのことで、何でも買ってすませることのできない時代でした。
食べるのに必死で経済的な余裕などどこにもありませんでした。
それだからこそなおのこと、主婦であった母の創意と工夫が、日々の暮らしの中で光って見えました。
母が花を飾ると、私はそれだけで嬉しくて、胸が弾みました。
季節の移ろいに歩調を合わせた日本人の日々の営みは美しく味わい深いと、
私はここで心にしっかりと刻んだように思います。
私は親から自分が教えてもらった日本の美しい暮らしを子供たちにも伝えていきたいと強く思いました。
そして、都心のマンションを離れ、箱根に家を建てたのです。
春になり、雪が溶けかけると、子供たちと長靴をはいて庭でふきのとうを探しました。
「あった、あった」と喜びの声をあげる子共たちの姿を見ながら、幸福を感じました。
天ぷらにしたり、佃煮にしたふきのとうのほのかな苦さに、顔をしかめる、昔の私そっくりな子供を見ながら、
私は子育てを通して人生を二度生きる不思議さを思いました。
家族と野花を摘みに芦ノ湖に出かけながら、私は自分が子供だった頃の
若かった母のことを思い出したりもしました。しゃがんで花を摘みながら、
母への感謝の気持ちがあふれ、ふと涙ぐんでしまうこともありました。
当時、私はセーブしているとはいえ、仕事も続けており、
母や父に同居をお願いして子供たちの面倒も見てもらっていました。
いざ自分が母親になってみると、日本の四季の行事はこんなにも沢山あるのかしら、と驚くほどでした。
お正月、七草粥、鏡開き、小正月、豆まき、雛祭り、端午の節句、七夕……暦にある行事ばかりでなく、
朝顔や向日葵、コスモスの種を撒くことやら、チューリップの球根を植えつけることなど、
我が家ならではのイベントもあります。
ひとつひとつをとってみればたいしたことではないのですが、物を出したりしまったり、
部屋を整えたり花を飾ったり、料理を作ったりなどの準備も含めると、
骨が祈れるなぁと感じることもありました。
けれど振り返ってみると、懐かしさで胸がいっぱいになります。
小さかった子供たちも今では成人して、皆んなそれぞれの道を歩み始めました。
いつか、自分たちが親になったときに、子供たちに伝えてあげたいというものを、
見出してくれていると嬉しいと思います。
私と民芸の出逢い
「この世に美しい国を作ろう」
中学生のときのひとつの出会いが、私の進む道を照らしてくれたように思います。
「私は何よりも普段使いの品が健全ならずば、この世は美しくならないと思う者です。
美と生活とが離れるならば、人間の美意識は低下してしまうでしょう。
この世に美を栄えさすために、また美しさへの心を深めるために、
用器を美しくする事の必要を切に思う者です。
工藝が衰えては美の大国は決して成就されないでしょう。
そうして民藝が廃れるなら、工藝もまた凋落するに至るでしょう。
なぜなら民藝こそ工藝の中で最も生活に即したものだからです。」
「美の国とは何を意味するか。それは美が凡ての大衆の生活に行き渡ることである。
私達は生活に役立つ美にこそ熱意を注がねばならない。」
それは、ついに一度もお逢いすることの叶わなかった、民芸研究家であり、思想家であり、
そして宗教家でもあった柳宗悦との出逢いです。
中学2年になったばかりの私・・・。
本が好きだった私は図書館で一冊の本に出逢いました。
なぜその本を読むことになったのか、また、題名さえもはっきりとは覚えていないのですが、
その本に書かれた柳宗悦という人の文章の中の「美」という言葉が妙に少女だった私の胸に響き、
その時から柳宗悦という人の名前が私の心から離れなくなってしまったのでした。
この人についていこう、この人を先生にして私は生きていくんだわ・・・と一瞬にして心に決め、
そしてその思いが65歳を迎えた今になっても、ずっと続いているのですから
恐るべき恋心というほかにありません。
その後、私は柳宗悦に導かれるように、日本の農山漁村を歩いてまいりました。
伺った農家で、おばあちゃんやおじいちゃんと話しをしたり、お茶を飲ませていただいたりもしました。
最初は、籠やザル、器や布、あるいはお宅などを見せていただいていたのですが、
そこで、ごくごく自然に、農や食の現実を知ることになりました。
「民藝と農」
一見、あい離れたもののように思われるかもしれません。
けれども、底流を流れるものは、とても似ています。
民藝を育て、農を生かすものは、人々の暮らしへの温かな思いです。
民藝が暮らしの美を支えるものなら、農は人々の命を支えるもの。
知れば知るほど、学べば学ぶほど、奥が深いことも共通しています。
箱根や若狭の地に古い日本の民家を移築して住むようになったのも、
もとはと言えば柳先生の教えを守った暮らしをしてみたいと強く思ったからなのです。
私は、娘達に残してやれる宝石や衣類などはほとんど持っていませんが、
長い暮らしの中で使われ続けた美しい生活用具の数々は、
我が家のかけがいのない財産として子供たちに遺すことが出来ます。
14歳の時に出逢った柳宗悦の言葉、「この世に美しい国を作ろう」という呼びかけが
いかに大きな意味を持っていたかを改めて思い知るのです。
この60数年、私たち日本人は、多くを得た代わりに、
気付かぬうちにとても大切なものの多くを失ってしまったのです。
たとえば、かつては、人々の暮らしの中に当たり前のようにあった文化や、
自然の理に適った習慣や、四季の移ろいによって変化する景色・・・。
心の拠り所であったはずなのに、知らぬ間に軽んじて捨て去ってきてしまったのです。
私の人生の原点と呼ぶべき出逢いから半世紀がたちます。
あの春の日に思った「美」について・・・「美しい暮らし」をもう一度見つめ直したいと思うこのごろです。

